早よう早ようと待ちかねた花の季節がやっと来て、ほんの数日前まで寒さに凍えていた世界が勢いつけて動き出す。甘い香を運んで来た風はやがて、新緑をのせた梢を揺すり。新しい命の息吹が満ちてのこと、木々の緑の色が深まるのに負けまいと、青さをぐんぐんと増す青空からは、目映い陽射しが降り落ちる。
「…おや。帰っておったか。」
御簾を巻き上げて、瑞々しい外の空気を取り込んでいる広間。周縁を巡る廻り回廊は、降りそそぐ陽に照らされて明るく、ずっとそこに居続けるとじりじりと炙られているような気がするほど。陽が高くなった分、冬場ほど奥までは届かないのを幸い、すぐ背後には涼しい空間が控えているので、その端境にいると何とも絶妙に心地がいいらしく。縄を編んで丸くした“円座”の上に丸くなり、小さな坊やがお昼寝中。甘い栗色の細い髪、後ろ頭へ結い上げた、形のいい真ん丸頭の幼い坊や。細い肩に寸の足らない腕と脚。いかにも儚げで愛らしい、無垢で無邪気な和子であり、実は実は“天狐”という特別な種の妖異の坊やでもあって。縁があってのこと、此処、都でも随一との誉れも高い陰陽師にして神祗官補佐殿の館にて、様々な修行の真っ最中…ではあるのだが。
「♪」
「…うにゃん。」
「お館様、ちょっかい出すのは 辞めたげてください。」
せっかく気持ちよく転た寝してる くうちゃんですのにと、書生の少年が窘めるのへ。そうは言うがこの頬の柔らかさは絶品だぞ? と、見えるか見えないかという細い細い鬢の後れ毛が落ちた頬、細い指先ですりすりとくすぐる、当家のうら若き御主様であり。
「朝餉の後、裏山へ飛び出してったんじゃあなかったか?」
そこもこの蛭魔の名義の土地である、ちょっとした広さ深さの雑木林のことであり。特に見張りや警護を立ててはないが、霊力の高い彼をば狙う、妖異らの侵入を防ぐ要衝の一部として、厳重な結界が張られてある。なので、滅多な邪妖がひそんでいよう恐れもないと、小さな坊やにはお庭扱いの林だったりし。その結界、人間にも効くはずの代物ながら、そこは殻体を持つ存在の強さというものか、たまにひょっこり紛れ込む者もなくはないが。だったらだったで、勝手に居座っている蛇神様が、坊やへ仇なす者は何人たりとも許さない。面と向かって確かめ合ったことではないが、これまでの実績がもはや動かしがたい事実の裏打ちのようなものであり。(笑) そんなこんなで、一人で遊びに出掛けても、さして案じることはなくなって久しい野遊びで。今日のようにお天気のいい日は尚更のこと、昼餉を食べにと一旦は戻って来るものの、そのまま再び飛び出してゆくのがお決まりの行動…だったはずが。よほどに深く寝入っているのか、浅く合わさった口許が時折うにゃむにゃ動きはするが、こちらも軽い閉じ方の目許、一向に開く気配がなくて。
「俺が出仕から戻って来ても、こうして居た試しってのが、
八十八夜から以降は一度もなかったと思うんだが。」
「……細かいですねぇ。」
それほどにお元気な仔ギツネさんが、今日はこうして大人しくお昼寝とは珍しいじゃないかと言いたいらしい。そんなやり取り交わしつつ、一応着ていた朝参用の衣紋を、蛭魔がむしるように脱いでく端から、瀬那くんが待って待ってと拾い上げてゆき、几帳へと広げて掛けたり、乱れ箱へと収めたり、これもまたご帰還の後のお馴染みの風景を展開しておいで。
「なんでまた、一つところに立ったままで脱いでって下さらないんです。」
あっちへこっちへ追いながら拾うのって面倒なんですよと訊けば、
「脱いだものを上から踏みつけぬようにと、これでも気を遣ってやってんだ。」
しわになっちゃあ もっと面倒だろうがと、ぬけぬけと言い返す豪胆なお師匠様なところも相変わらず。春物の衣紋でも汗ばむ陽気のこの頃なその上、位が高いお人だからと、正式な礼服や式服ともなりゃ、こんなもんじゃあ済まない重ね着をさせられる。今日は単なる出仕だったが、国事行為の式典なんぞがあった日にゃ。それを取り仕切る部署のお館様は、ずんと絢爛たる装束をまとって、式の進行にあたらにゃならず。厳かを通り越しての仏頂面で、それでも式典の場にいる彼の様、東宮様がいつもいつも面白おかしくセナへと話してくれてたりする。まま、それはさておいて。
「今日は、あぎょ…阿含さん、どこかへお出掛けなんですって。」
昼餉の時間に呼びに行ったら、いつもいる広っぱで野ギツネの仔や山猫と一緒に遊んでいたようで。推定っぽい言い方なのは、セナの気配に気づくとパッと駆け去ってしまったから。あの蛇神様がいるのなら、他には何にもいないか、若しくはくうちゃんと同じで怖いもの知らずから逃げないか。そういう呼吸のようなもの、とうに把握のセナが“あれれぇ?”というお顔になったところへ駆け戻って来たくうちゃんが言うには、
『あぎょんはね、おりあいがあるんだって。』
『…おりあい?』
何か…何てのか、あのお人には一番遠いところにある単語なような気がしたのですがと、そんな複雑微妙なお顔になったセナへ、
「そりゃあきっと“寄り合い”と言ったんだろう。」
「あ、そか。」
そっちにしたところで、あの野郎には縁がなさげな言葉だが、と。こちらさんもまた、遠慮のないお言いようをし、
「邪神であっても神は神だからの。俺らには及びもつかねぇ次元の“上下関係”ってのがあるのやもしれん。」
「…お師匠様。」
そのうちその悪口のせいで滅びますよ。おうよ、望むところだ…などと。頭のうえでの会話にも、全く揺すぶられることもないままに、小さな坊やはくうくうと、そりゃあ安らかに眠り続けており、
「………かわいいですよね♪」
掻きむしったような跡ひとつない すべらかな頬は、ふくふくとしていて柔らかそうで。軽く伏せられたまぶたを縁どり、睫毛の陰が淡く落ちている。そんなで役を果たしているのかというほども小さな小さなお鼻に、甘い緋色で一丁前にも先がツンと尖った、形のいい口許の何とも可憐なことと言ったら。そんな夢を見ているものか、時折寝息が深まって、そのたび毎に“あわわ”と自分の口許塞ぐセナなのもまた、蛭魔には愛らしいおかしさが堪らぬ光景であったのだが。そんなセナが一心に見守ってやっている、小さな小さなおとうと弟子くんを、
「………。」
すっかりと着替え終えた身を、すとんと別の円座に落ち着けたお師匠様も、同じように“ふ〜ん”と眺めやっておいでだったが、
「確かに色々と身につけたようだし、口も達者になったが。」
「?」
主語がない唐突な話しようはいつものことで。この流れから察するに、仔ギツネくんを指してのことであるらしく。
「その割に、あんまり大きくはなっていないような。」
「え? そうですか?」
お箸を随分と上手に使えるようにもなりましたし、その分、たっくさん食べるようにもなってますよ? くつとか着物の紐も、届くところのは自分で結べるようになってますし、駆けっこも早くなったし…と、セナが指折り数えて見せるのへ。いや、だから体格の成長の話をしとるんだがと。言い直すのも面倒だったか、
「まま、人の何百倍も生きる神族のお使いだ。子供だからと言って、ムクムクと一気には育たんか。」
そういうもんかのと自己完結したような物言いを蛭魔がこぼした、丁度その間合い、
「…うみゃい。」
これもまた ふくふくとした肉づきの小さな手を丸め、目許をこしこしと擦りつつ、もぞりと寝返りを打った仔ギツネさん。そんな拍子に……ぽんという小さな炸裂音がして。転た寝から本格的な熟睡へとなだれ込んだか、そして人の姿でいられなくなったのか。萌黄色の袷という姿でいたものが、その身が一気に小さな仔ギツネのそれへと戻っている。夜も更けての此処へのお泊まりという格好での熟睡をしていても、朝まで和子の姿のままでいられるものが。あまりの暖かさとそれから、すっかりと此処へ馴染んだ証し、そうまで気が緩んだのだろうかと。師弟がくすくすと微笑っていたのも……いっときのこと。
「…あ。」
「お…。」
蛭魔とセナと、ほぼ同時に気づいたのが、小さな仔ギツネのお尻の部分へ。猫のそれよりふさふさの毛並み、犬のそれより軽快に先っちょをふわんと上へ浮かせているもの。体にまとった毛並みとお揃いの色合いのお尻尾が…気のせいだろうか、先程までより大きいような?
「体が小さくなったから…大きく見えるのでしょうか。」
「いやいや、そんなもんじゃあない。」
先にも述べた、この館に張られた結界の影響から。人の和子の姿をしているときでも、柔らかな毛に覆われたお耳と尻尾は隠せないくうちゃんであり。さっきまでの姿へも、このお尻尾は体の陰へと見えていた。ただ。ふさふさで愛らしいものだからと、常に眺めており把握もしていた家人の彼らが、え?と意外に思ったほど。何だか随分と…嵩増ししてやいませんか。
「…。」
「あ、ダメですよう。」
起こしちゃったら可哀想だと、この期に及んでもそんな判断が出るセナの言いようを、優しいというより呑気な奴だと断じての聞き流し。円座からやや身を起こして覗き込んでたそのまんま、手を伸ばして尻尾の先を掴んでみると。
「お。」
「…………え?」
これでも加減はしたらしく、自分の拳分ほどの高さを持ち上げた蛭魔だったのだが。そうやって掴んだ部分のすぐ傍ら、半分ほどだけが床へと残ってついてこない。毛並みが豊かになっただけじゃあなくの、
「…どうやら尻尾が2本になったらしいぞ。」
「ええ〜〜〜〜〜っっ!!」
くうちゃんを起こしちゃいますよと窘めたのは、何処のどなたであったやら。裂けたんですか、真っ直ぐ裂けてしまったんですか? 痛くはないんでしょうか、あああ それより、天世界のお父様に知らせなきゃいけないんじゃないんでしょうか。口許や胸元へと不安げに手をやり、どうしましょうどうしましょうと見るからに慌てているセナへ、
「………まあ落ち着け。」
どうどうどうと。こちらさんのもまだまだ幼くて薄い肩へと手を置いてやり、
「進が武装して出て来かかっとるぞ。一体どんだけ驚いたんだ、お前。」
「はやや…。////////」
蛭魔が視線で指し示した広間の奥向きには、成程、彼の憑神が…鎧甲冑も勇ましく、武神様の正装でお出ましになりかけている。違うんです、何でもありません、驚かしちゃってすみませんすみませんと。何度も何度も頭を下げて、何とか引っ込んでいただいてからのあらためて。転た寝している仔ギツネさんへと視線を戻せば。
「みゅ〜〜〜。」
さすがに今のお大声は効いたのか。何なに何ごと?と、目許を擦りながらつぶらな瞳を開きかけている くうちゃんで。それへと、
「よお、お目覚めか? くう。」
「うにゃ、おやかま様、お帰りなさいvv」
ごちゅっち終わりましたか。おうよ、終わった。日頃と変わらぬ和やかな会話が始まっており、抱っこと求めて延べた手が、自分の視野の中、キツネさんのそれへ戻っているのに気づいたらしく、
「ありゃりゃ。////////」
失敗失敗と恥ずかしそうに照れながら、頭へ両の手をやって、そこへ立ってるお耳を撫で撫で。人の和子へと変化(へんげ)するときの咒の一部であるらしき、かわいらしい動作をして見せる。それへと、
「あ…っ。」
何か言いかかるセナだったけれど、そのお口は…横薙ぎに飛んで来た蛭魔の手のひらがすぱんと塞ぎ。何の妨害もないままに、小さな仔ギツネ、咒をかけ直し、
「…えいっ。」
ぽむと空気が弾けて、現れいでたは…さっきまでの姿と寸分違わぬ小さな坊やだ。あ、いやいや、違っているところがなくもなく。袷とお揃いの色合いをした短袴のお尻から、ひょこりふわふわ飛び出している、ふさふさのお尻尾が、
「………やっぱり二本に増えてますよね。」
「ああ。これから暑くなろうってのに気の毒な。」
「そこが一番問題なんですか?」
例えるならば、孔雀の尾羽に近いかも。それほどの広がりもあるほど嵩が増した、ふわふかで立派なお尻尾であり。こういうものと判っておれば、これもこれなり、そりゃあ可愛らしい姿ではある。片や、セナくんをその懐ろへ、やんわりとながらも羽交い締めにしている おやかま様なのへ、おややぁ?と小首を傾げた小さなくうちゃん。
「何してるですか?」
遊びなら くうも混ぜてというノリで、とたたと歩み出しかけたものの、
「え?」
その場に とさんと尻餅をつく。何が起きているのかを、もしかしたら一番判っていないらしくて。変だな変だなとお膝を引き寄せ、立ち上がりかかるのだが、
「ふや?」
今度は前へとつんのめりかけ。わあと慌てたセナが飛び込んでって、間一髪、下敷きになってくれたことで、板の間にごつんと顔から転がるのは阻止出来たものの。
「???」
ますますもって不審そうなお顔になるばかり。これは間違いなく、
“今初めて尻尾が増えた、か。”
重さまで倍化するのか、いやいや単にバランスが取れないだけなのか。そこのところも含めて、まずは現状と向かい合ってからだよなと。セナくんの背中で受け止められはしたものの、前へとコケたには違いない坊やを、腕を延べての抱え上げ、よっこらせと自身のお膝へまで運び上げたお館様。こうまでの間近で真正面から向かい合った幼子へ、宥めるようにお声をかける。
「なあ、くうよ。」
「あい。」
「何か気づかぬか?」
「なぃか?」
何なにどしたの? ともすれば不安になりかかってるものか、目許を潤ませて始めているおチビさんへ、
「尻尾をな、振ってみな。」
「ちっぽ?」
なんでそんなことすゆの? いいからやってみと、急かすでなく叱るでなく、平生の口調で促した蛭魔だったので。よく判らないまま、それでもこっくり頷くと。小さな仔ギツネさん、どういう連動になっているのか手足や他の部分は止めてまで、お尻尾にだけ集中をしてみせたのだが。
「…あや?」
その途端に、ぱさんと何かが背中を叩いたもんだから。え?え?と肩越し振り返り、その鼻先を掠めた何かへ…わあと立ち上がってまでして驚いた。
「やぁの、やぁのっ。何かいるのっ。」
怖いよぉと蛭魔へぎゅうとしがみついたが、その“何か”も押し寄せて来ての、ふわんと背中へまとわりついたから堪らない。怖いの取ってと真剣本気で泣き出しかかる様子なのを見、宥める前に…あっはっはと。
「…お師匠様?」
白い喉元仰向けて、笑い出してしまった とんでもない御主様だったのへ…呆れつつ、
「ほらほら、くうちゃん落ち着いて。」
床に伏せてたところから、やっとこ起き上がったセナくん。嵩増ししたお尻尾と小さな背中の間に自分の手を入れてやり、そのまま背中を撫でてやって。何とか落ち着かせようと“いい子いい子”を繰り返すのを…小半時もかけた末にやっと泣きやませ。
「ほら。これってくうちゃんのお尻尾だよ?」
「うみぃ?」
笑ってる場合じゃあないでしょがと、この彼がお師匠様相手には初めてかもしれない、鋭い一瞥差し向けたので。へいへいと何とか爆笑を押し殺し、ついでに移動の咒で、隣の部屋の納戸から、南蛮渡来の銀磨きの鏡を呼び招く。この時代ではまだ鏡というと銅を磨いただけの、単に金属のなめらかさへ写して見るものであったのだが。遠い西方にはこういうのがあると、トカゲの総帥さんがいつぞやにくれたのを思い出したからで。2枚で1対の合わせ鏡になっているの、セナに片方を持たせて調節し。小さな坊やへ自分の背中を見せてやる。ゆらんゆらんと揺れてる何か。背中へ当たるのがまだ怖いと、蛭魔へ抱きつく坊やだが、その手を片方つかみ取り、
「ほれ、確かめてみ。」
「…っ、」
お尻へと持ってかれた手が触れたのは、小さな背中を半分ほども覆う豊かな毛並み。たちまち、ぴゃっと総毛立ちかけたくうちゃんだったが、
「あ…?」
自分の反応のそのまま、お尻尾もいつもと同じよに硬直したので。あれれぇと…ようやく、その連動反射で理解が追いついたらしくって。だってのに、だからどうしてと、まだどこかに納得仕切れぬ齟齬がある様子。大きくて黒みが強い、日頃なら笑顔の真ん中でたわめられているのが何とも愛らしいばかりの目許を、今は。今にも溶け出してしまいそうなほど涙に沈ませているのがどうにも痛々しかったので。
「くうちゃん。」
蛭魔と自分のお背(せな)とを、交互に見やって戸惑うばかりという様子の幼いおとうと弟子くんへ、こっちをお向きと静かな声をかけ、
「…せぇな。」
どうしようという塊に喉を詰まらせ、困り果ててるかわいい子。そんなくうちゃんの頬を、そおっと開いた手のひらで優しく撫でてあげながら、よっくお聞きねと お顔を近づけ、こちらさんも大きな瞳へ相手の瞳を映し込み、
―― いいかい? きっとくうちゃんは、お兄さんになったんだ。
セナくん、そんな風に囁いた。
「お兄ちゃ?」
「そお。」
くうちゃんは色んなことが出来るようになったでしょう? 五十までを数えられるようになったし、指を使わなくても五までの数での足し算と引き算は出来るようにもなった。たくさん走ったり、ハシゴを昇ったりも出来るようになったし。お唄もいっぱい覚えたし、そうそう、裏山まで一人で出掛けて一人で帰って来れるようにもなったでしょ? あれもこれもと数え上げてくれるセナの言葉へ、
「…うん。」
こくんと頷く幼子へ、
「そんな風に、いっぱいいっぱい出来るようになったから。
もう赤ちゃんじゃないんだよって目印に。
お尻尾がもう1つ増えたんだよ、きっと。」
にっこり微笑って言い切ったセナであり。
「…そおなの?」
「そお。」
恐る恐るに訊くのへも、自信満々、大きくこっくりと頷いてやる頼もしさよ。
“…ま、そういうところだろうよな。”
細かい詳細まではさすがに蛭魔にも判らない。いつもここへと くうを送り届けるお役目の、朽葉とかいう天狐の青年も、そんな話は少しも言い置いて行かなかったから。どうやらお誕生日になったらとかいう、期限や日の決まっているような代物じゃあないらしい。となると、今宵迎えに来るあの 取り澄ました隋臣の態度が見ものだなとか、そうそう葉柱もまだ知らないのだろうに、どんな顔になることやらとか。そんなこんなと先のことを思ってるらしい、そんなお館様のお膝からいつの間にやら降ろされて。
「どっか痛いとかは? ないの?」
「うん、へーき。」
「そか。それでも今日は、もう大人しくしてようね?」
「うん。」
「朽葉さんが来たら、もっといろいろ教えてもらえようからね。」
「うんっ。」
「そうだ、玉藻様とか、お祝いしてくれるかも知れないよ?」
「おゆわい?」
「だって、くうちゃん、お兄さんになったんだもの。凄いことなんだよ?」
「しゅごいの?」
「そうだよ、凄いんだよ?」
***
そうして、随分と陽の入りが遅くなった黄昏どきにお迎えに来た、くう こと“葛の葉”様の御付きの青年天狐は、ふかふかな坊やの尻尾に…皆が初めて見たほどその双眸を大きく大きく見開くと、身分をわきまえていつも控えめな態度なのも吹っ飛ばし、小さな王子をぎゅうと抱きしめてしまったほど。何という何というと繰り返すばかりだったのを、それでも何とか自制で立ち直り。館の皆様へも深々とお辞儀をしてから、王子を連れて、天へと駆け戻っていってのその後、
『せぇなが ゆってた通りになった。』
玉藻様もまた、玉座から転げ落ちそうなほどの慌てようで駆け寄って来て、よかったよかったと抱っこしてくれ。そのまま天の宮殿では、そりゃあ立派で賑やかな、お祝いの宴が始まってしまったのだとか。正式なお披露目の宴はまた別に、様々な関係筋を招いて執り行のうことになるらしいほどに、そりゃあもうもう 例えるもののないくらい、おめでたいことであったらしく。
「成長したっていやあ、もう一人の方が凄かったらしいじゃねぇか。」
くうちゃんのそんな大切な場に居合わせられなんだことを口惜しがってた葉柱が、そんな憤懣を吹っ飛ばしてしまったその後の顛末というか、地上の顔触れ側の続き、いわゆる“後日談”というのがあって。
『お師匠様、ちょっとそこへ座って下さい。』
『さっきから座っとるぞ。』
大泣きしちゃったくうちゃんが、何とか安堵し、その弾みでまたぞろ転た寝を始めたその間のこと。納戸のある次の間へと、腕を取っての引っ張り込んだ…自分よりも上背も威容もたっぷりとあるお師匠様と。面と向かっての真っ向から、真っ直ぐに向かい合うよう座したセナくん。
『何か おいたをしての自業自得ならともかくも、
心底困って怖がっている、それもあんな小さい子を笑い飛ばすとは、
一体どういう料簡ですかっ。』
心細げに泣いていた姿があまりにも可哀想で、それでの弾みがついたらしく。日頃からこういうところのある蛭魔だと、重々知っていたはずのセナが。それでもと、とうとう意見したのだから、こっちもこっちで凄まじい成長ぶりかも。
『お館様なら何とかしてくれると縋って来た子をあんな、
よくも笑って突き放すような真似をしましたねっ。』
意見をするというよりも、これは完全に怒っておいでのセナくんで。またまた進が現れやしないかと、そっちをこっそり伺っておれば、
『よそ見するほど、ボクの言い分も馬鹿馬鹿しいのですかっ?』
『ああいや、そういうんじゃなくてだな。』
だんっと、手元の床を叩かれて。怖くはなかったが、これ以上怒らせるのも剣呑かもと、そこは大人の計算も出の。それからそれから……。
「いつまでも人の顔色窺ってるようじゃあ、陰陽師にゃあなれねぇからな。」
この俺様を睨んでの言い諭そうとするなんて、これ以上の気の吐きようもなかろうて。そんな風に言い、くつくつと微笑った蛭魔でもあり。ちょっぴり大人になった、天と地上の小さな二人。見守る大人にも恵まれていてよかったねぇと。まだしらじらと明るい、翌日の宵の夕空に浮かんだ真ん丸なお月様が、くすりと微笑ってござったそうな。
〜Fine〜 09.05.08.
*昔から“九尾の狐”なんてのが、
妖怪や妖異の世界でもその名を馳せておりますね。
古いところでは、
中国や天竺の伝説や歴史書にまで出て来るのが、
どちらも王朝にまつわる人をたぶらかした美女に化けた狐で、
殷王朝の紂王をたぶらかした妲妃や、
南天竺ではやはり王室関係の貴人の、
妻だか許婚者だかに化けた華陽夫人。
そして日本でも、
鳥羽上皇の時代に“玉藻の前”という美女として現れて
人の心を操り、世を乱したとされているお話があり、
この3人は同一の“白面金毛 九尾の狐”だとする説もある。
(『うしおと とら』とか『封神演義』とか、昔よく読んだなぁ…)
そんな風に ただただ悪い妖異だとする扱いをされているかと思えば、
『周書』や『太平広記』という書の中では、
平安な世を迎える吉兆、神の使いだとしたり、
麒麟や鳳凰のように、幸福をもたらす象徴だとされている。
くうちゃんのお父さんはこっちの方の天狐さんなので、
そこのところ どうかご了解を。
めーるふぉーむvv 

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